一人暮らしで悲惨な事と言えば、
騒音問題だ。
一ヶ月前に、
俺が引っ越してきたアパートなんかは、
壁が薄くて隣の音がだだ漏れ。
まあ、向こう側にも、
こちら側の生活音がだだ漏れな筈だけど。
プライバシーなんて当然考えられてないね、うん。
ま、そんな訳で、
毎日毎日隣の部屋から声が聞こえてくる。
だいたいが、子供の泣き声なんだけど。
隣の部屋には、
若い奥さんが住んでいる。
旦那さんとは離婚したそうだ。
シングルマザー。
美人な人で会うとかなりドキドキする。
ちなみに、
その泣き声は、
奥さんの娘さんだ。
なんでも、
まだ産まれてすぐだそうで、
奥さんが
「うるさいでしょう?すいません」
と何度も謝りに来てくれている。
夜泣きってヤツかな?
それにしても、
わざわざ謝りに来てくれるなんて、
若いのにモラルがしっかりしているなー、
なんて思ったものだ。
俺だって若いけど。
奥さんが美人だから、
娘さんもきっと可愛いだろうと思っているけど、
未だにお目にかかれていない。
残念だ。
ま、いずれ会う機会もあるだろう。
楽しみである。
朝だ。
そそくさと布団を片付けて、
朝食を作り始める。
さっさと食べて、
仕事へ向かわなければ。
俺は毎朝、
ギリギリまで眠るため、
こんな風に朝の準備を急がねばならないのだ。
だからと言って、
早く起きようとは思わないのが不思議だ。
バタバタと違う隣の壁から音が聞こえる。
美人な奥さんの部屋とは別の隣の部屋には、
田中さん家族という一家が暮らしている。
田中さん夫妻に小学生の息子さん一人の三人家族だ。
この家族もなかなかにうるさいのだが、
彼らの騒々しさはどこか懐かしく感じられる。
多分、実家を思い出すのだろう。
田中さん家族の団欒を耳に聴きながら、
朝食を食べるのが俺の日課だ。
気のせいかもしれないが、
普段より朝食が美味く感じるのだ。
コレを俺は、
田中マジックと呼んでいる。
嘘だ。
朝食を済ませて、
俺は直ぐに部屋を出る。
カタカタと階段を駆け降りる。
踏み外しかけた。
危ない。
もうしない。
ふと見ると、
アパート前の道路に
小学生くらいの女の子が立っていた。
ボンヤリとアパートを眺めていた。
「田中君なら、まだご飯食べてるよ」
田中君(息子)のお友達だと思って
そう彼女に告げた。
彼女は小さく会釈をした。
む。礼儀のしっかりした子だ…。
関心。
ふと仕事のことを思い出して、
俺はスタコラと走り出した。
帰宅後。
俺が、テレビを見ていると、
いつも通り泣き声が聞こえてきた。
「大変だなー。子供は」
と、ボンヤリと思う。
少しすると、
泣き声がピタリと止んだ。
「寝たのかな?」
まだ見ぬ娘さんの寝顔を想像してにやける。
イカンイカン。
なんだか、俺が変な人みたいだ。
別隣の部屋からは、
ドタバタと騒ぎ声が聞こえてきた。
相変わらずうるせー。
「母ちゃん!!父ちゃんが風呂場で溺れてるよ!!」
「なんで!?」
「父ちゃん、
湯槽の中で逆立ちしだして、
起き上がれなくなってる!!」
「馬鹿じゃないの!!
ちょっとアンタ!!大丈夫!?」
「ブハァァア!!死ぬかと思った!!」
「何がしたいのよ、アンタ…」
「い、いや。息子に凄いところ見せたかったんだよ…」
「父ちゃんが馬鹿だってことはわかったよ」
なにしてんだ、父ちゃん。
翌日。
いつもどおりの時間帯に家を出る。
丁度、田中くん(息子)が出てきている最中だった。
「よー、兄ちゃん。相変わらず疲れた顔だね」
「うるせー、クソガキ」
近隣の小学生との心暖まるやりとりである。
田中くんのランドセルからはリコーダーが飛び出ている。
懐かしい。
「そういえば、君、隅におけないね。
女の子をアパート前に待たせるなんて」
先日見た女の子の事を聞いてみた。
「え?ああ、みーちゃんの事?」
「みーちゃんっての?」
「あれ?兄ちゃん知らなかったの?」
「知るわけないだろ。
君のガールフレンドの事なんか」
「べ、別にそんなのじゃないよ!!
幼馴染みなだけだよ。
でも、兄ちゃんってあんまりご近所付き合いしてないんだね」
「は?何が?
って、あっ!!また遅刻だ!!
じゃあね!!」
そう言って
全力でアパートの階段をかけおりる。
田中くんは階段の上から手を降っている。
午後10時。
会社の先輩と呑んでいたら、
帰りが遅くなってしまった。
アパートの階段をゆっくり上がる。
奥さんがいた。
「あら、お帰りなさい」
「あ、ども」
奥さんはゴミ袋を持っていた。
あ、明日生ゴミだ。
それと同時に回覧板の事を思い出す。
「あ、ちょっと待っててください…」
すぐに家の鍵を開けて回覧板を手に取る。
「どうぞ」
「あら、印鑑がいるわ」
奥さんがドアを開けっぱなしにして
奥へと消えていった。
靴が並んでいる。
インテリアとして小物類も並んでいる。
廊下にはマットが敷いてある。
電気。帽子。
床には服がいくつか散らばっている。
その間にリコーダーを発見する。
本なんかも積まれている。
風呂場には電気が付きっぱなしだ。
奥さんが印鑑を持って出てくる。
「ありがとうね」
優しく微笑む。
それだけで疲れが取れたような気がした。
翌日。
インターホンを誰かが鳴らす。
「はい…」
田中さん(母)と田中くん(息子)だった。
「ねえ、貴方。
最近隣から泣き声聞いた!?」
唐突に田中さんに詰問されて、
俺はたじろいだ。
「え…何が?」
「だから!!泣き声よ!!」
「あ、ああ…そういえば一昨日から聞きませんね」
ヒステリックに叫ぶ田中さんに、
思わず答える。
途端に彼女の顔から血の気が引いた。
田中くんか大声で叫んで、
お隣のドアを叩き始めた。
「みーちゃん!!みーちゃん!!みーちゃん!!」
「え…?」
「あの人の娘は…小学生よ…」
田中さんが言った。
え…?
え…。
じゃあ…。
じゃあ…今までの泣き声は。
「以前から何度も市の相談所に連絡していたのだけど…
当のみーちゃんが否定して、解決しなかったの…」
田中さんが何かを諦めたように呟いた。
「息子が昨日、
みーちゃんが出てこなかったって言うから…
まさかと思ってたのだけど…」
田中さんがフラフラとした足取りで隣の部屋へ向かう。
俺も付いていく。
ドアは開いていた。
廊下には昨夜どおり
リコーダーが服の下から覗いていた。
「嗚呼…」
部屋には、
誰もいる気配がしない。
昨夜から電気が付きっぱなしの風呂場に目がいく。
あの日出逢った少女の顔を思い出す。
田中くんはその場で啜り泣いている。
床を殴り付ける。
手から血が流れる。
田中さんはそんな息子を
ただ悲痛な表情で見つめていた。
俺はフラフラと風呂場へと歩いていき、
ドアを開ける。
鼻につく不快な臭いがした。
俺は湯槽を覗き込んだ。
そこには、
ただ一点を見つめ続ける臭いの根源が横たわっていた。
田中くんの嗚咽が玄関から聞こえてきた。
「みーちゃん…ゴメンね」
俺は。
気付けなかった。
【解説】
語り手が聞いていた鳴き声は
赤ん坊のものではなく、
小学生のみーちゃんのものだった。
みーちゃんは虐待されていた。
田中さん一家はそれを知っていて、
相談所に連絡をしたが、
当の本人がそれを否定したため、
何も解決しなかった。
みーちゃんのお母さんは
虐待の連絡をされたことに腹が立ち、
みーちゃんに対しての当たりが強くなったのだろう。
その結果、
みーちゃんは殺されてしまった。
虐待されている子供が
虐待されていることを肯定するのは
ものすごく難しいと思う。
虐待が当たり前になっているため、
虐待を肯定して新しい未来を得る希望よりも
虐待を肯定したことによるさらにひどい虐待への恐れの方が
強いのではないかと思うから。
周りが介入したとしても
なかなかそれを受け入れられないだろう。
周りが介通報したことが
かえって悪い方向に進みかねない。
周りが介入するとしたら、子供に
「虐待を肯定して新しい未来を得る希望」
があることを知ってもらい、
それを得たいと思ってもらうことが先決だと思う。
いきなり虐待の連絡をしたところで
子供は虐待を肯定することが恐ろしくて
肯定なんてできないと思うから。
イジメや虐待はどうにかなくなってほしいが、
なかなかなくすのが難しい問題である。