街から離れた山のふもとに、
その男の家はあった。
男はそこで絵描きをやっていて、
時々訪れる客のために絵を描くのだった。
男は数年前まで外科医だったのだが、
ある事情によりその職を辞した。
どうしたものかと途方に暮れていたある日、
男はそれまでに得た人体の構造についての知識を、
何かに活かせないだろうかと考え始めた。
骨格や筋肉について熟知しているから、
少しの練習でそれなりのものが描けるようになった。
といっても、
風景画などはからっきしだめなのだが。
男はノックの音で目を覚ました。
「小鳥のさえずりすら聞こえない時間に誰だろう。
まさか客かな」
ドアを開けると、
うさぎの毛のように白い肌をした女が立っていた。
女はその扇情的な目を男に向けて、
「こんな時間に申し訳ありません。
描いて欲しいものがありますの」
「なんでしょう。
あなたのお顔でしょうか。
それとも知人のでしょうか」
正直を言えば、
男は女の顔を描きたかった。
今までに出会った誰よりも美しく、
時間を共に過ごしたかったからだ。
女が写真などの資料を見せようとする素振りはなかった。
願いが届いたのかと男が思ったとき、
「誰のでもないお顔を描いていただきたいの」
と女は言った。
「はて、どういうことですかな」
「つまり、この世界のどこを探してもその顔の持ち主はいない……
そういう肖像画をお願いしたいの」
「なるほど」
「でも、無茶苦茶な絵は反則ですのよ。
単純化されていたり、
目や鼻の場所がおかしかったりするのはだめ。
まるで、実際にその人の顔を模写したかのようなものを、
お願いできますか」
男はしばし黙考し、答えた。
「わかりました。お安い御用です。
あなた様はお美しいので、
お代は半分で結構です」
「あら嬉しいわ。ではお願いね」
「明日にまたいらっしゃってください。
その時にはもう、完成しているでしょうから」
「楽しみですわ」
その日になった。
女は昨日と同じ時間にやって来て、
肖像画を受け取り、
「ありがとう。よく描いてくれましたわ」
と言って、嬉しそうに帰っていった。
それからしばらく経った日、
男が新聞を広げると、
大きなニュースが目に入った。
数日前に起きた殺人の犯人が捕まったという内容だった。
その犯人は、
数年前に行われた外科手術で死亡したはずの人間だという。
【解説】
男が外科医を辞職した『ある事情』というのは、
患者を自分の失敗で死なせてしまったこと。
『この世界のどこにもいない人の顔』
はそのすでに死んでしまった人の顔を描いた。
すでに死んでしまっているため、
この世には存在しない顔なのだから…。
そして、この女はこの絵を持って整形外科に行き、
自分の顔を整形した。
殺人を犯して
逃亡している最中だったのだろうが、
結果的には整形後に捕まってしまった。
その結果、
『この世界のどこにもいない人の顔』
という名の
『昔外科手術により死亡した人間の顔』
だったために、
『数年前に行われた外科手術で死亡したはずの人間』
という報道がされた。
「死亡したはずの人間が生きていた!」
ということで、
この後はオカルトだったり、陰謀説だったり、
色んなことが囁かれてしまいそうである…。